第二章【批判の根拠】(8)現世利益

創価学会の信仰に対する批判として、根強く残っているのは、現世利益(げんせりやく)の問題です。現世利益というのは、信仰することによって、現世すなわち今生きている現実の生活の中に、利益になることがある、ということです。

学会ではそれを功徳と言って、信仰の一つの目的にしています。
世の中には様々な宗教があって、「現世利益を求めるのは、真の宗教ではない」などというのもあります。

「この世は苦しみの連続する世界で、何をしても幸せにはなれない。だから諦めて、あの世で幸せになるために、信仰に励みましょう」
という宗教団体もあります。また、
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「宗教の目的は現世利益ではない。宗教は心の問題だ」
「高等宗教は形而上(けいじじょう)のことが問題なのであって、現実のことを問題にするのは低俗な宗教である」

などというのもあります。
これらは、宗教を単に心の慰めか、自己満足程度にしかとらえていません。

こういう宗教は、単純に言えば、現実には何の役にも立たないし、存在理由もありません。心の慰めならば、わざわざ信仰する必要もないでしょう。好きな音楽でも聴いていればよいのです。
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現世利益を否定する宗教は、自らの宗教の無力さを証明しているといえます。
その信仰が自己満足で終われば、他への影響もないので、無害であるといえるかもしれません。しかしそれ程、人間の社会は気楽なものではありません。
自己満足の宗教であったとしても、信者は社会的な存在ですから、様々に利用されたり、影響を与えたりする者です。

例えば、江戸時代、幕府の重税に苦しめられた農民の間で、念仏宗が広まりました。当時の農民の苦しい生活に合った宗教が念仏の教えだったのだのです。
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念仏宗は、

「厭離穢土・欣求浄土(おんりえど・ごんぐじょうど)」

と教えます。意味は、
「現実の世の中は、穢(けが)れた場所で、苦しみばかりが多いところなので、そんなところは厭(いと)い離れ、逃げ出して、死後の、浄(きよ)められた、幸福な楽土を欣(よろこ)んで求めなさい」
という程度のものです。

現実のこの世の中は苦しいものなのだと諦め、早く幸せなあの世へ逃避することを教えています。そのために、あの世の浄土の仏である阿弥陀仏に念仏を唱えてお願いしなさいという教えです。
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念仏の教えは、権力者である幕府にとっては、非常に都合がよいものでした。どんなに重税をかけて苦しい生活を強制したとしても、諦めてしまって幕府への要求や反抗につながらない傾向性を持っていたからです。
だから幕府は、農民に念仏宗を意図的に広めたともいわれています。

また、宗教を現実から離れたものと捉えたり、単なる心の問題にするようなものが増えたとしたら、権力者はこの上なく喜びます。

このような信者たちは、現実の政治的、社会的な厳しい状況や矛盾の中で生活していたとしても、社会を変革したり、政治権力を変えていこうとするようなエネルギーを持たないからです。
自分の内面にのみ目が向き、自己満足するような人間ほど権力側からみて扱いやすいものはありません。

これは、マルクスが言った、「宗教はアヘンである」に通じるものです。
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さらにまた、もし政治家が国民を戦争へと駆り立てるような流れを作っていった時、現実に関わることから逃避した宗教は、結果的に権力者のいうなりになり、戦争へ加担することになります。これは幾多の歴史が証明していることです。

創価学会は現実に何の役にも立たない、夢物語りのような理想的な組織集団ではありません。
現実の社会の中で、四苦八苦しながら生きている人々の集まった、それだけに現実に対して力を持った教団です。生身の人間の集まりです。
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だから当然ながら、学会員も病気をするし、経営する会社も倒産するし、刑事事件を起こす会員もいるでしょう。
不慮の事故で死ぬこともあるしまた、犯罪者の犠牲になることもあります。
現実の中で生きている人間なのだから、仕方のないことです。

また、宗教法人創価学会には千人を超える職員が就労していますが、その中には反学会的な言動をする者や、犯罪を犯す者もいました。
週刊誌などで何人も取り上げられているところです。
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典型的だったのは、職員から学会の顧問弁護士になった者が、学会を脅迫し逮捕されたことでした。
裁判の結果、恐喝罪で懲役三年の実刑判決を受けました。それを受け、日本弁護士会は弁護士資格を剥奪した。

学会にもこの様な人がいることは事実です。学会が現実の社会のなかで活動している証拠だといえます。だから、

「この宗教を信じれば、病気もせずに、よいことばかりで、悪いことをする人もいなくなり、平和な世の中になります」

などという宗教は現実離れしたものであり、逆に胡散(うさん)臭い気持ちさえ出てきます。それは、人間に対する把握が、幼児的な宗教であると言えます。
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職場や地域で身近に接する学会員が、さまざまな不幸な出来事に合ったり、犯罪者になったりしたからといって、学会自体の存在が否定されるべきものではありません。
現実社会の中で起こっているさまざまな事象は、そのまま学会員に起こることは、当然のことだといえるでしょう。

しかし、このように書けば、
「それじゃ、創価学会は、信仰をしてもしなくても全く変わらない宗教だ。無意味で、不必要な宗教だ」
と思うに違いありません。
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そして、素朴な疑問が出てくるでしょう。
それは、学会の信仰をすると、どのような良いことがあるのか、ということです。学会批判者のほとんどの人が持っている疑惑でしょう。

「学会は、『信仰は単なる心の問題でもなければ、自己満足でもない。マインドコントロールされているわけでもなければ、自分をごまかしているわけでもない。客観的な信仰のメリットがある』などと主張する。しかし、紙に書いた文字を拝んで、客観的なメリットがあるなどというのは、非常識極まりなく、バカバカしくてお話しにならない」

これが本音といえるでしょう。
この疑問に対する回答は学会側の、信仰という主観的な立場を持っている人や、反学会という感情的なものを持っている人、このどちらの立場の人からの説明も客観性を欠くことになります。
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第三者の純粋に客観的な立場から科学的な検証をすることが、誰にでも納得を得られる回答になるでしょう。
いわゆる、
「創価学会の信心には、現世利益が本当にあるのか」
ということです。

そのためには、社会学としての学問的な研究が必要です。
できるだけ多くの人数の、学会員と非学会員を調査対象にして、長期間にわたって調べることです。

ポイントは、どのような範囲で、どのような観点から調査するのか、ということになります。
様々な切り口は考えられますが当然ながら、学会員と非学会員の相違の原因が、現実の生活の中で確認できる評価軸を決めることが大切です。
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例えば、できるだけ同じような条件で、できるだけ多くの学会員と非学会員を同数抽出します。それらの人の生活を十年、二十年、三十年と継続して調査をします。
そして評価軸として例えば、平均寿命と年収を取り上げて統計を出します。さらに、学会員と非学会員の、犯罪者と被害者になる比率を出します。これであれば、第三者的立場の客観的な数字になります。

その結果は、学会員以外の人から見れば信じられないような、学会員が見れば当然のような数値を示すでしょう。
信仰を保った人の方が長生きをし、経済的にも豊かな生活になり、犯罪に関係することも少ないことが明確に示されるでしょう。

これは、俗っぽいと言えば俗っぽい観点ですが、現実の人生のなかにおいては、重要な観点です。
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同じように、創価学会の本部の職員についても、同規模の企業や公共団体と比較すればよいのです。
犯罪者などマイナーな職員の出てくる割合は、学会職員の方がはるかに少ないことが実証されるでしょう。

さらにまた、学会員と反学会の活動をしている人との人生の幸福度を比べるならば、一目瞭然の差が出てくるでしょう。

これらの結果をより正確にするために、より多くの人々を対象に、より多くの評価軸を設定して調査研究をすれば、より明確に証明されます。
いずれかの大学の研究室が、この調査研究に取り組んでくれることを期待しています。
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学会の強さは、現実の生活の中に信仰の良い影響が出てくることです。すなわち、現世利益が厳然として実証されるということです。
実証の根底には、学会の信仰が、日蓮仏教が、棚からぼた餅式でもなければ、他力本願でもなく、自己の根本的な変革から成し遂げられるものである、という道理が貫かれています。

学会員以外の人は、このことが理解できないから、学会がどうしてこれほど強いのかも理解できないのです。

常識から考えても、世界の一千万人以上もの人が、単なる心の持ち方や、自己満足でしかないような信仰を続けるわけがないでしょう。
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もし、創価学会が人々を不幸にし、社会に悪をなす団体であり、世の中から消滅させなければならないと真剣に思うのであれば、今言ったような学問的研究の結果としてそれを示すべきでしょう。

そういう労苦もしないで、重箱の隅を楊枝でほじくるようなことをして、まるで鬼の首でも取ったような調子で批判するのは、線香の薄煙のようなものです。
そんな批判を学会として相手にするわけがありません。

せめてもう少し、学会から相手にしてもらえるような骨のある批判をすべきでしょう。軽口をたたく学会批判者が、山ほど集まって騒いだとしても、学会また学会員には何の影響もないことを、もういい加減で、自覚するべきです。
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学会を批判する団体は、本気で学会を壊滅させたいのであれば、学会以上に多くの人々から、信頼と尊敬を集められるような人間の組織を作るべきです。
ところが、口先では正義のヒーローのように学会批判をしていますが、実際に集まっている人はいい加減で、醜い心でいがみ合い、自己中心的なことしか考えられない人が多いのです。これは悪口ではなく、実態です。

これまでの、数え切れないほどの学会批判者の集団、運動体の顛末(てんまつ)を調べれば、明らかなことです。

だから、学会批判者の口先に乗って学会をやめ、反学会の団体に加入した人が、あまりにもひどい人間の集まりであることに嫌気をさして、また学会に戻って来るという人も多くいます。
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学会には信仰に人生をかけて、長年にわたり活動してきた人が無数にいます。
その人たちを批判するのであれば、批判する側も信念に貫かれた、日々の生活と人生を歩んだ上で批判すべきでしょう。

そうでなければ、
「信なき言論、煙のごとし」です。