第四章【権力との対峙】(1)折伏(しゃくぶく)
この3、40年の間に、日本の青少年にとって大きく変化したことがあります。体つきなど外形的なことではありません。内面的な心の問題です。一言でいえば、
「精神的に非常に弱くなった」
ということです。3、40年ほど前の児童生徒であれば、教室の中でさまざまな形の言葉による対立があったとしても、少し時間が経てばすぐに以前のような仲間の関係に戻ったものです。
30年ほど前の子供たちであれば、全く問題なく会話が弾んだものが、現在では心に傷がつき内面へと深く浸透し、傷跡が残ってしまうのです。
このことは長年、教育現場で教壇に立ってきた教師の多くが実感していることです。以前であれば全く問題にもならなかったような会話が現在では、「言葉の暴力」としていじめの事例として取り上げられます。
教師と生徒、生徒と生徒の関係が割物(われもの)でも取り扱うような状態になっています。
本音を出さずに、当たり障りのない表面的なきれいごとで済ますことが、生きる上で大事なことだということが身についてしまいます。
こうして育って大人になり、社会で働くようになるとまた、職場で同じような状況が起きてきます。
現在、社会問題にもなっている、パワーハラスメントの問題です。以前の教育現場で起きていた問題と全く根は同じものです。
当然といえば当然ですが、30年先、40年先の職場や社会がどのようになっているのかを現実の姿として表しているのは、今の学校の現状であることは間違いありません。
時々、
「いじめやパワハラは、昔からあったが、人権意識が低かったから問題として世の中に出てこなかっただけだ」
という人がいますが、これは大きな間違いです。いじめやパワハラは、受け止める側によって決定付けられます。
決して客観的な基準があるわけではありません。相手が変われば、問題になるかどうかにも影響してきます。
また、現在言われているいじめやパワハラの基準は現時点でのものであって、社会が変われば、変化して当然なのです。
もちろん、いじめやパワハラは決して許してはいけません。ただ、現代人が精神的な圧力に対して弱くなっていることは事実だから、その原因を探り、心を強くする方策を考えることも大切でしょう。
現代人の精神が脆弱(ぜいじゃく)になった1つの大きな原因は、他人との関係を維持することが苦手になったことにあります。他人と人間関係を持てば当然ながら相手から、何らかの働きかけがあります。
そういう働きかけに対して上手に対応ができなくて苦痛になり、人間関係を希薄化させたり、解消したりする方向を選ぶ人が多くなっています。そして、自分の方から相手に対して積極的に働きかけを行うこともしたくなくなります。
このような生き方が身についてしまうと、学校ではいじめが、社会ではパワハラが起きる可能性が大きくなります。
学校現場ではこういう傾向の象徴的なことが昨今では起こっています。それは、児童生徒の次のような場面で言われる言葉によく表れています。
例えば、授業中に眠っている子供がいた時、教師がそれを注意すると、
「周囲の者に迷惑をかけていないのだから、よいではないか。自分が授業を受けないことによって損になることについては、自分で納得している」
という子供が非常に多いのです。
さらに授業中に、その時に行っている授業以外の教科を自分で勝手に勉強することを「アルバイトする」と言ったりしますが、それを注意すると、
「だれにも迷惑をかけていないのだから、怒られる理由はない。下手な教師の授業を聴くより自習する方が効果的だ。自由な学習権を認めるべきだ」
という意味のことを主張する者も多くいます。
これらの言い分が実際の学校現場では通じていることが多いのが現状です。
「他人に迷惑をかけなければ・・・」
この言葉の奥深くに、精神を弱くする要因が隠されています。それは、他人との係わりを避けて、孤立する傾向性です。
自分も他人に迷惑をかけない代わりに、他人からも迷惑になるような影響を受けたくないのです。自分からも他人からもお互いに積極的な働きかけをしないことが、自由に生きることだと錯覚をしています。
これは、自由ではなく、気ままなだけです。教師も子供の気ままを人権にすり替えて、放任している場合が多いのです。結果的に、「気ままでひ弱な孤立者」を多く育ててしまうことになりました。
「気ままでひ弱な孤立者」的な生き方は必ず壁にぶち当たります。その1つの現象として、いじめやパワハラがあるのです。
断っておきますが、言うまでもなく、いじめやパワハラを受けている人にも悪いところがあると言っているのではありません。多くの事例を調べれば分かることですが、特定の性質を持った人がいじめやパワハラを受けるのではなく、だれでも被害者になる可能性があるというのが実情です。
言い換えれば、これまでの日本の教育がいじめやパワハラの温床になってきたのであり、社会全体の構造的な問題だということです。
さらにまた、「気ままでひ弱な孤立者」は、気ままに生きるために障害となる人間関係、例えば親戚や家族さえも遠ざけてしまいます。
結果的に、自分が納得して気楽に生きるために、独り暮しをするようになります。そして高齢化するといわゆる、独居老人となります。
こういう人たちが、体調不良などを契機に人生の終わりを感じる時、出てくる言葉は、
「寂しい」
ということです。「気ままでひ弱な孤立者」を育てる現在の日本の教育、社会のあり方は、決して人間の本来のあり方として正統なものであるとはいえません。
前置きがが長くなりましたが、折伏(しゃくぶく)と「気ままでひ弱な孤立者」とは密接な関係があります。
折伏とは布教の方法です。
日蓮大聖人は次のように言っています。
「末法、今の時、法華経の折伏の修行をば、誰か経文の如く行じ給へしぞ。(中略)
我等が本師・釈迦如来は在世8年の間、折伏し給ひ、天台大師は30余年、伝教大師は20余年、今、日蓮は20余年の間、権理を破す。其の間の大難、数を知らず」
とあります。
口語意訳訳すると、
「今、末法と言われる世の中で、経文に書かれている通りに、法華経こそが釈迦の真実の教えであり幸福への道である、これ以外の教えは不幸の因である、と他の宗派や宗教を論破している人がどこにいるだろうか。
私たちの、仏教の根本の師匠である釈迦如来は、8年間の間、折伏をなされた。また、中国の天台法華宗の開祖である天台大師は30年間、折伏をなされた。そして、日本の天台宗の開祖である伝教大師は20余年間折伏をなされた。今、私日蓮は20余年間、釈迦如来の教えを誤って伝えている人々に対して厳しく誤りを正してきた。その結果、これまでの間に受けた大きな法難は、数え切れないほどだ」
というくらいになるでしょう。
ここで大聖人ははっきりと、折伏という修行を釈迦も天台も伝教も行ってきたと明言しています。折伏というのは仏教創始者である釈迦から続いている仏道修行の基本中の基本であるということです。
折伏という言葉の意味は、
「相手の誤った考えを打ち破って正しい考え方に導く」
というものです。
「折伏をする」というのは、学会の信仰している日蓮仏教をまだ知らない人に教えて、ともどもに信仰の道に進んでいくようにすることです。当然ながら学会の信仰に絶対的な確信がなければ他人に勧めることなどできません。
さらに、学会の信仰こそが真の幸福になる唯一の道であり、それ以外の宗教や思想などは不幸になる原因である、という信念を持って行っています。
一見すると独善的で過激に思われる学会の折伏には随分、批判もあります。その代表的なものを3点について見てみます。
まず、1つ目は、
「押しつけがましく、強引だ」というものです。
しかし単純に考えてみて、折伏は外形的にはセールスであり、営業です。業界でトップクラスの成績を上げる営業マンは、一面で「押しつけがましく、強引」でなければ良い成績を上げられるわけがありません。
例えばもし学会が、世の中から批判を受けないような、おとなしい折伏をしていたとしたならば、今日のような世界的な広がりを持ったり、国政政党の設立母体にもなることはできなかったでしょう。
折伏について批判をする人は、人間の組織や運動体というものについて素人であるということです。いつの時代であれ、社会運動を発起し、推進しようとすれば、それに反対する勢力から批判されるのは当たり前です。
世間から非難されずに大きな仕事を成し遂げた人などいません。
折伏を批判する人は1度、自らが自分の考えを他人に賛同してもらえるように説得をしてみればよいでしょう。そして何人の人が自分の元に集まってくれるか試してみれば、折伏とはいかなるものかが分かるはずです。
折伏を批判する多くの人は、積極的に他者に働きかけることができない、また他者から働きかけられることを恐れる、現代教育の被害者です。「気ままでひ弱な孤立者」の予備軍であるといえます。
人生の生き方や思想、哲学、宗教などについて働きかけられたなら、堂々と持論を戦わせばよいではないでしょうか。それができずに折伏の批判をするのは、愚痴(ぐち)としか言いようがありません。
逆説的ですが、そういう人こそ学会に入会して、他者に対して働きかけられるような自分に自己変革することが、豊かな人生を歩むためには必要でしょう。
仏教の根源である釈迦も、その後の流れを築いていった天台や伝教も仏道修行の根本として折伏を行(ぎょう)じました。いわば、折伏は仏教の社会運動と個人の修行の礎になっているものです。
これは現代においても全く変わらない仏教のあり方です。だがら、折伏を否定することは仏教を否定することと同じだといえます。
2つ目には、
「他人の人生に口出しをするな。どのような人生観を持って生きようが本人の自由だ」
ということが挙げられます。
この批判は、人権尊重の近代社会において至極、当然のことのように思われます。しかし、西欧よりも人権意識の低いままで近代化した日本の社会においては、洗練された人権感覚ではなく、歪んだ捉え方となっています。
その1つの例が、
「他人に迷惑をかけなければ、自由にしてよい」
という教育現場で直面している壁です。一見、個人の人権意識の現れであるかのようにも思えますが、現場で対応する教師はその本質をよく知っています。「他人に迷惑をかけなければ」というのが、くせ者です。
実際には、「他人に迷惑をかけなける」かどうかの判断は、他人の立場からではなく、当人の都合のよいように解釈をしているのです。
例えば授業中に眠ることについて、当人は他人に迷惑をかけないというが、眠らずに授業を受けている周囲の児童生徒からすれば、やる気をなくさせるような迷惑な行為なのです。
また、授業中にアルバイトをする児童生徒は、教師からみればずいぶん、無礼なことでです。
このように自分中心にすべてを判断するものだから、他人に対する影響も客観的な理解ができなくなるのです。
この傾向性と、
「他人の人生に口出しをするな。どのような人生観を持って生きようが本人の自由だ」
ということとは相通じています。いずれも日本の教育の弊害です。
自分の人生観といえども、現実の人間社会の中で生きているわけだから、他人との相関関係の中で人生観が検証されなければ、社会的に許容されるかどうか分からないのは当たり前でしょう。
他人から、人生観や思想、哲学、宗教についてさまざまな働きかけを受けるのは当然であり、それを拒むのは人間の社会性が認識できない幼稚な精神状態と言えます。自由勝手に生きたければ、無人島で1人で生活するしかないでしょう。
数年前の国際的なアンケートに、世界の主要な国の高校生世代を対象にしたものがありました。そのうちの質問の1つに、
「電車の中で携帯電話を使用することに対してどの程度気を使うか」
というものがありました。
選択肢が、『非常に気を使う』から『全く気を使わない』まで数個のものがありました。
アンケートの結果は、日本の高校生が、最も周囲に気を配らないというものでした。
最近の日本の教育を受けて育った人には、知らず知らずのうちにこの様な他人との関係性を誤認している人が非常に多いということです。
終戦後、人々は、特に青年は、人生論を戦わせました。
「人生は何のためにあるのか。あなたの人生観は間違っている。ひ弱な道徳者の生き方はするな」
等々、夜が明けるのも知らずに徹夜で論争をしたものです。この傾向は、特に人生論に興味を持っている人に限ったことではなく、社会全体にお互いの考えをぶつけ合うという風潮がありました。
相手からも追及される代わりに、こちらからも積極的に働きかけていくような相互の深い交流がありました。その中でお互いに打たれ強い精神を身につけることができました。同時に、お互いの本音を語り合うなかで、お互いの存在の大切さを肌で感じることができたのです。そこには、いじめやパワハラが入ってくる余地はありませんでした。
学会の折伏は現在の、
「他人の人生に口出しをするな。どのような人生観を持って生きようが本人の自由だ」
という考え方を打破する運動です。そして、人間との結びつきを深め、相手の低い人生観を変革させ、大きく充実した人生を送れるようにする活動です。それは同時に社会変革にも通じまあす。
相手からの働きかけを不快に思い、自己の殻に閉じこもるような国民が多数を占めるような国には、社会運動は起き難いでしょう。人と人とが団結をして社会全体に働きかけていくような活動は最も苦手なことになるでしょう。
こんな有権者が多ければ多いほど、政治家にとっては都合がよいのです。少々、悪政を行ったとしても、抗議運動に参加する意欲や気力も出てきません。いつまでも政治家が好き勝手に政治を行うことがでます。
そうならないようにする為に、折伏は社会に対して目覚めた民衆を立ち上がらせる運動でもあるのです。
3つ目には、
「学会員は、他人の幸せのために折伏をするというが本当は、自分が功徳をもらうためにやっている。自分のエゴの行為だ。相手に対して見返りを求めずに自己を犠牲にして奉仕するのが真実の宗教家だ」
というものです。
これは結論的に言えば、子供じみた批判です。
いったい、この世の中に自分の幸せを求めずに、他人の幸せのためのみに行動する人が居るでしょうか。居るわけがないでしょう。
なぜなら、その生き方は人間の本性ではないからです。本性でない生き方を精神力や修養によって身につけたと思っても、現実生活の中では矛盾とひずみに悩まされるでしょう。
「自分を犠牲にして他人の幸福のために尽くす」
これは多くの人が理解している通り、虚言であり、偽善です。
それは、実際にこのように主張している人と1週間でも生活を共にすればすぐに分かります。
中には、自分を犠牲にすることを喜びとするようなマゾヒスト的な精神状態の人も多くいます。逆に言えば、何のことはない、自分を満足させるため、すなわち、自分のために他人に尽くしているに過ぎないのです。
実際にはこのような偽善者の集まった宗教団体もあります。すべてをきれいごとにして、醜いものから逃げて見ないようにしています。
そして、泥沼のような現実を忘れて、少女漫画の世界のような生き方をしているのです。
一見、それでもいいじゃないか、と思われがちですが、信者の内部からは、「この世界は墓場だ」という批判があったりします。
その通りでしょう。現実の厳しい社会から目をそらした生き方に、近代市民社会の一員としての、真実の幸福の追求も社会に対する責任も果たすことができるわけがありません。
こういう人たちが、「自分を犠牲にして他人の幸福のために尽くす」と言っている場合がほとんどです。人間の本性にそぐわない精神論や宗教は、必然的に偽善にならざるを得ないのです。
仏教の流れの中においても、自らの欲望を1つずつ断ち切る修行をすることによって悟りを開き、成仏するというものがありました。これを小乗教と言います。
釈迦は衆生の精神的なレベルが高まるにつれて、小乗教を否定して、大乗教を説きました。小乗教は大乗教を説くための手段だったのです。
釈迦の説法は、人間の表面的な把握から、生命の本質へと深まっています。だから、大乗教は人間の本質に根ざした経文であるといえます。
その大乗教の教えの基本として、
「如蓮華在水」(蓮華の水にあるがごとし)
というのがあります。
これは、仏道修行者が現実社会の中で仏教を広めていく姿を説いたものです。小乗教的に読めば、あらゆる欲望が渦巻く現実社会の泥沼の中で、それに染められて影響をされることなく、清らかで美しい花を咲かせる仏教者の姿です。
大乗経的に読めば、
「美しい蓮華の花が咲くことができるのは、汚れて穢い泥沼があるからにほかならない。泥沼の汚れ方がひどければひどい程、肥料が豊かになり、さらに美しい花を咲かすことができる。一体不ニなものだ」と解釈ができます。
釈迦の真意は当然、大乗にあります。人は欲望があるからこそ、仏道を修行して人間的に向上し、悟りを開こうとする意欲が出てくるのです。もし欲望を完全に切り捨てようとするならば、「灰身滅智(けしんめっち)」と言いますが、最終的には生きていること自体が欲望の現出であるということになり、悟りを開くためには死ぬしかなくなります。
こんな宗教が世界宗教に発展したり、人々を幸福に導けるわけがありません。
実際の国の歴史を調べてみても、東南アジアで小乗教が国民の間に根を張ったところは、科学や医学、社会生活の向上が自由主義国家よりも遅れています。良くなろうとする欲望も忌避されるのだから、発展しないのは当然といえるでしょう。
人間の本性にそぐわない、偽善的であったり、自虐的であったりする布教活動では、一部の偏狭な趣味を持ち合わせている人には通じたとしても、世界に広がる大きな宗教運動の流れなどできないでしょう。
『折伏鬼』という小説が30年ほど前に出版されたことがありました。小説という虚構にはなっていますが、作者自身も言っているように、創価学会での折伏の体験をもとにして書いたものです。
作者は青年時代、数年間にわたって学会員となり、さまざまな折伏の現場に立ち会ったと言います。
書いている内容は、
「学会が行っている折伏というものは、『人生や生活に迷い苦しんでいる人々を救うものであり、同時に平和な社会、国家ひいては世界を建設するものである』と美化しているが、実際に学会員がやっている折伏というのは、とんでもない反社会的なものだ」
ということを書いたものです。
いかに折伏というものが、偽善的であり、反人権的であるかということが具体的な折伏の事例として描いています。中には、刑法に触れるようなことや学会員を痛めつけるようなことも書いています。
ダラダラとした文体は稚拙で、文学性はまったくありません。作者の、隠れてうごめくようなことを好む性癖が色濃く出た描写になっています。
中学生の遠足の感想文のようなものです。しかし、学会が隠ぺいしたがる折伏などの実態を暴露している、ということで一時的に注目されました。
反学会の書物がまだ売れていた時代で、出版社も金儲けのために出版したのでしょう。この単行本などは、まさに学会のおかげで印税を稼いだと言えます。本来であれば作者は、学会に感謝をしなければならないでしょう。
『折伏鬼』に書いてある内容は、小説という虚構のジャンルを使って、しっかりと逃げ道を作ったうえでのものです。そうしながらも、創価学会の実態というものは実はこんなにひどいものだ、ということを印象づけようとしています。
「事実と違うではないか」
と追及すれば、
「何を言っているか、これは虚構の小説だ」
といつでも言い訳できるようになっているのです。
どちらにしても、ことさら1つの事例の、ほんのわずかな1部の負の面を強調して、全てがそうであるかのごとく表現したものです。まさに、『《馬のゲリ便》をホントだ』(第一章【概要】(3)参考)と言っているようなものです。学会批判の常套手段なのですが、小説というジャンルを使ったことによって少々注目されたという程度でした。
最近、この本が電子本で再版されたらしい。30年近くも前の原稿で再び金儲けをしようというのです。採算を考えると紙の本にする出版社はどこもないので電子本にしたのでしょう。
よほど金に困っているようです。だが気の毒ですが、こんな本を購入するのは、ほんの一部の偏狭的な学会批判者しかいないだろうから、わずかな数しか売れないでしょう。
布教は宗教の命です。布教をしなくなった宗教は、死の宗教だといえます。なぜなら、真実の宗教の目的は、人々を救うことにあるからです。救うことをやめれば、それは宗教ではなくなります。
「救う」という言葉に反発を感じる人は多いかもしれません。しかし、その宗教の教義に確信があるからこそ言える言葉です。
もし、信仰している宗教の教えに自信がなければ、他人を救うなどという思い上がったことは言えないでしょう。
学会が折伏をして人々を救うというのは、学会員ではない人に対して、上の立場に立って、相手を命令的に導こうとしているのではないのです。
一面からいえば、他人から導かれて幸せになるのであればこんな楽なことはないともいえます。学会の折伏は、あくまでも本人自らが幸福への道を歩む力をつけてもらうためのものです。だから折伏の根本精神は、相手の心の中に自己変革への確信と行動力を起こさせようとするものなのです。
幸福は他から与えられるものではありません。与えられたものは、与えたものが居なくなれば喪失する可能性が高いものです。折伏は信仰する1人ひとりが自立して満足の人生を歩むための応援だといえます。
当然の道理ですが、布教するのは足のある人間です。どんなに素晴らしい宗教であったとしても、教えそのものが勝手に広まることなどありえません。
キリストの十字架が独りで歩きだして、宣教師のように教えを広めるでしょうか。
学会の仏壇に安置しているご本尊が、勝手に仏壇から飛び出して人々を折伏するでしょうか。そんなことがあるわけがありません。
折伏は生きた生身の人間が現実社会の中で行うものです。多種多様な状況の中で矛盾やひずみのようなものもあるのは当然でしょう。
しかし、それによって1千万人もの人々が満足できる人生へと自己変革できたことを考えれば、折伏は人々の幸福へ限りない貢献をなしているといえます。
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この話を知って、“流石、自民党だな”と感心した。“本音”と“建前”を上手に立て分ける人たちの集まりだから。
昭和33年の事。時の総理大臣の岸が創価学会の会合に挨拶に来ることになっていた。それに対し、Y氏は“時の総理が一宗教団体の会合に出るのは、問題がある”と反対した。その反対に対して、岸総理は、“急に外交上の問題が出来たので”と言って、出席を取りやめた。確かに、筋が通っている。しかし、これは、“建前”。上手いね。
本音はこうだ。Y氏は“総理、創価学会の会合に出れば、反学会票が自民党に来なくなりますよ”と諭した。それを聞いた総理の方も、創価学会の会合に出るメリットとデメリットを比べてみたんだろうね。だから、急遽、出席できない理由(建前)を作って出席を見合わせたのだ。本音は、学会票より反学会票の方を重視しただけの話なのだ。“まだまだ、あなた方は、世間から見れば、弱小勢力なのですよ”という自民党からのサインなのです。だから、33年の事件は、政治的な駆け引きであって、高尚な問題なんかでは、決してない。
これに対し、“馬鹿にされた”創価学会の人たちが怒っても仕方ないと思う。ともかく、昭和44年の選挙で創価学会が支援した公明党は大躍進。自民党の人たちはビックリしたでしょうね。