第二章【批判の根拠】(9)名誉学術称号
昨年(2019年)、南米・アルゼンチン国立フフイ大学から池田会長に「名誉教授」称号が授与されました。
フフイ大学というのは、アンデス山脈の麓にある国立大学で、約25000人が学んでいる同国を代表する学府です。
その大学の審議会が満場一致で、池田会長への名誉教授の授与を決定したのです。授与理由は、
「平和社会の建設のために対話を貫き、政治、文化、教育、学術分野など、世界の多種多様な人々と出会いを重ねてきた。対話と連帯の輪を広げるため、異文化間の相互理解や国家間の友好の促進に努めている」
というものでした。
名誉称号授与式は、首都ブエノスアイレスにあるテクノポリス・スタジアムで行われ、同大学の総長など多数の来賓が列席しました。また、4000人もの人が、参加して授与を祝福しました。
これまでに池田会長に対して、世界の教育機関から授与された名誉博士号、名誉教授称号などは、昨年の段階で、400に近い数に上っています。
その中には、モスクワ大学、北京大学、香港大学、パナマ大学、シドニー大学、マサチューセッツ大学ボストン校、バッキンガム大学など、多くの国立大学や有名私立大学が含まれています。
学会批判の団体や人は、これが非常に気に入らないわけです。
批判者はとにかく、池田会長の業績や創価学会の優れたことについては、ことごとく気に入らず、虚言をもって批判をするのです。
会長の名誉称号のことを話題にしていたテレビ番組で、人気のあるニュースキャスターが、
「これでねえ・・・」
と言って、指を丸めてお金の形を作ったことがありました。このキャスターは、学会嫌いでした。
「池田会長は、会員から巻き上げたカネで、自分がいい格好をするために、名誉称号を買い漁っている」
このように言いたかったのです。
このキャスターに限りません。様々なメディアには、称号は正当な評価の上で授与されたものではなく、不適切な方法によって手に入れたものである、とか、受章した名誉称号そのものが、いかにも値打ちがないもののように非難しているところがあります。
中には、大学に適当な金額を寄付さえすれば、誰でももらえるような受領証の類と同じようなものであると批判しているところもあります。
池田会長が受けた名誉称号は、全く批判されているものとは違って、大学の教授会や審議会で正式に決定されたものです。その大学の名誉をかけた権威あるものなのです。
名誉称号というのは、実際はどのようなものかといえば、例えば、講演会などで講師を紹介する時、海外の聞いたことのないような大学の名誉博士号を一つだけでも受章したことがあれば、それを素晴らしいものとして紹介します。
講師自身も受章を誇りとして講演します。
これは当たり前のことなのです。それほど名誉称号というものは、重みのあるものです。大学が威信をかけて授与するものだからです。
世の中も当然ながら、このことを認め、受章した人には尊敬の念を持って評価を高くします。
ところが、池田会長については全く逆なのです。とにかく、会長の評価を高めるようなことは、すべて否定をしたいわけです。
400近い称号も、すべてクズ同然のくだらないものか、金で買ったものだというのです。授与した世界の大学に対してこれほど失礼なことはありません。
会長をおとしめるという目的のためには、平気で良識ある世界の人々の心を踏みにじるという、日本人としての恥以外の何物でもありません。
後日、例のニュースキャスターは同じ番組の冒頭で、あいまいな態度ながらも謝罪しました。放送内容に対しておそらく、厳しい抗議が放送局の方であったに違いありません。
あいまいな態度をとることが、せめてものキャスターの自尊心だったのでしょう。ある面でかわいそうな人間でした。その人はすでに亡くなっています。
会長の名誉称号を批判する人に共通していることは、自らは全く名誉称号などを受章できる者ではないことです。
もちろん、全批判者を調べたわけではありませんが、まず間違いないと予想できます。もし、海外の大学の名誉称号を授与された人であれば、それがどういうものか事実を知っており、会長を批判するなどということはあり得ないからです。
批判する人は、名誉称号を授与してもらえるようなレベルではなく、はるかに劣った学術的、人間的レベルでしかないのが実態です。
効果的で、皆が納得できる批判をしたいのであれば、自らがまず海外の大学から最低でも3つの名誉称号を授与してもらったうえで行うべきでしょう。
名誉称号を授与してもらった経験もない人が、どうしてその称号の重みが理解できるでしょうか。無責任極まりない話です。
負け犬の遠ぼえのように、キャンキャンと批判だけするのは、自らの人間性を卑しめているようなものです。
ところで、この名誉称号に対する批判の中には、創価学会批判の原理の一つが表れているように思えます。それは、
「どうせ、名誉称号のことについては、ほとんどの人は詳しく知らないだろうから、嘘でも言って批判すれば、それを信じて創価学会批判者になるだろう」
ということです。
すなわち、相手が無知なことをよいことに、虚偽の批判を作為的に作って、相手に信じ込ませる方法です。批判している事柄の関係者からみれば、いとも簡単に分かるような嘘をいかにも本当らしく言うのです。
「名誉称号を金で買う」というのも関係者からみれば、バカバカしくて話にもならないことですが、知らない人は信じる傾向にあります。
さらに、会長が授与された「名誉称号」とは、似ても似つかない「称号」を持ち出してきて、金で買えるなどと言うと、信じたくもなるでしょう。
会長が受章した大学に行き、授章理由を調べれば事実はすぐに分かることです。
ところが、批判者の誰一人として、一つの大学についてもこのような調査をしません。すれば、自分たちの主張している批判が嘘だとバレるからです。
嘘だと知りながら、学会批判に声高に喧伝(けんでん)して利用するという、良識的な人にはできないことを真顔で、正義面をして行うのです。
こういう批判の仕方が、創価学会批判の一つの原理です。相手の無知につけ込んで騙(だま)すやり方です。悪意に満ちた主観を、さまざまな小細工(こざいく)を弄(ろう)して、あたかも客観的な事実であるかのごとく表現するのです。
そして、
「学会本部は、都合の悪いことは、学会員にはひた隠しにしてだましている。会員はそれを妄信している」
などと子供じみたことを、まことしやかに言うのです。
この類いの批判者は、
「教養レベルの低い者は、創価学会批判の策略にかかって、簡単に批判者になる」
という考え方が底流に流れています。
要するに、情報を流す相手を見下し、卑しめているのです。
その情報を流す相手とは、不特定多数の一般大衆です。言い換えれば、
「一般大衆はたいした知識など持っていないのだから、本当らしく嘘をいえば簡単にだませる」
というわけです。
読者あるいは聴衆をバカにしているのです。
だから、「池田会長は名誉称号を金で買っている」ということに影響されて、「そんなこともあるかもしれない」などと思う人は、自分をバカにしている学会批判者の思うつぼにはまっているのです。
学会批判の多くは冷静に検証すれば、ほとんどは作り話だということが分かります。しかしそれでもなお、同じような話が広まっているというのは、悪意を持って学会の発展を阻止しようとする人たちの蠢動(しゅんどう)にほかならなりません。
そして、その人たちに共通していることは、民衆を見下しているということです。
結局、創価学会批判の連鎖は、
「無知な人が、適当な嘘を作って、無知な人をだます」
という悪循環になるのです。
コメント
コメント一覧 (2)
私はまだ若い世代だと思っていますが、今までSNSや友人等に言われもなき批判を見たり言われたりしてきて、ずっとモヤモヤしていました。
私もまだまだ無知な方ですが、それでも自分が見てきた創価学会とネットでながれている情報が違うというのはずっと思っていました。
思ってはいるけど、うまく伝えることもできないし、圧倒的に批判してある記事の方が多いのでずっと悲しい気持ちになっていました。本来の創価学会の人たちや池田先生は本当に1人を大切にする心優しい人たちばかりなのに。
批判する人たちに論破したところで認めようとはしないと思いますが、私たちは地域や職場で1人を大切にし生き生きと輝く中で、自分自身を通して周りから実証を示すしかないですね。
創価学会って聞いてたのと違うじゃん!って☺️
批判者たちの言うように、お金をもらって名誉称号を出す3流の大学もあるだろう。これは認めよう。だからといって池田大作という人物が受けた名誉称号は“金でもらった”という事にならない。そんなヘンテコな論理で推論を進めていくなら、彼に名誉称号を授与したモスクワ大学や北京大学は三流の大学ということになる。失礼な話だ。名誉棄損だ。
更に、池田大作という人物は、“世界平和”とか大きな観点で、トインビー博士など、多くの世界の識者たちと、対談もしている。日本でも松下幸之助さんなどと対談している。もし、批判者たちの論理をもってすれば、松下幸之助さんは“金が目当て”で対談したことになる。変な話だ。私財を投げだしてでも“松下政経塾”作った人が“金目当て”だなんて滑稽だよね。
最後に、言いたいのは、批判者たちは、大きな間違いをしている。これは、彼らの心の“さもしさ”から来るものだと思うが、僕たちが青年の頃に池田大作という人物を尊敬したのは、彼が沢山の名誉称号をもらったからではない(それは、それで凄い事なんだが)。そんな事など枝葉末節だ。敬愛したのは、僕たちに希望を与え、今後進むべき指針を与えてくれたからである。年齢を重ねたが、その気持ちは変わっていない。感謝している。