第一章【概要】(6)利害感情型
創価学会批判をする理由として利害関係によるものが多くあります。
単純に学会員が増えれば損をするので、阻止しようとして批判する訳です。
その代表的なものは宗教団体です。
既成仏教としては、念仏宗、真言宗、禅宗、律宗、日蓮宗などがあります。
また、キリスト教もあります。
しかし、これらの教会や仏教団体からは、
学会に対する批判はほとんどありません。
ネット上を調べても、見当たらないでしょう。
また既成の新興宗教団体、天理教、生長の家、PL教、
立正佼成会などからの批判も全くと言ってよいほどありません。

戦後しばらくの間は、学会の活動方針の中に《邪宗攻撃》というのがありました。
言葉遣いとしては批判を受けることもありました。
この《邪宗》の中に既成仏教や新興宗教団体が入るわけです。
仏教や新興宗教に詳しい学会員が2人、3人とグループを組み、
それぞれの教団の拠点となっている、教会や寺院に法論に挑むわけです。
イメージとしては時代劇に出てくる道場破りのようなものです。
一度行ってだめなところは、二度でも三度でも行きました。
この活動方針は徹底して行われたのです。
ただ、法論の場で学会側が勝ったとしても、
相手は大抵、生活のための仕事として活動拠点を営んでいるので、
改宗をすることは、あまりありませんでした。
ただ、
「創価学会には理論的には負けるから、関わらない方が良い」
という対応の仕方が定着したのです。現在もそれが継続している状況です。
ですから、現在、これらの宗教の会員になっている人が、
創価学会に入会しようとする時、
ほとんど、トラブルのようなものは起きずに改宗しています。

新しく出てきたものです。
大抵は、学会が所属していた日蓮正宗の宗門から出てきたものです。
日蓮正宗の中でも分派や喧嘩別れなどして、
顕正会、正信会、法華講、妙観講などの教団ができました。
それらが、いつもは、お互いに喧嘩をしているのですが、不思議な事に、
学会批判においては、一致団結しているのです。
邪宗攻撃を受けた宗教団体とこの批判団体との違いは、
前者は学会の攻撃から守るべき信者もいれば宗教法人としての組織もありました。
それに対して後者は、もともと、同じ日蓮正宗の信徒団体だったわけです。
本来は少人数の、特定の寺院の信者の集まりでした。
それが、学会が驚異的な発展をする中で、
それぞれの教団も信者が増えていったのです。
だから、学会批判をすると言っても、
もちろん、日蓮仏教を否定する訳ではありません。
日蓮大聖人の教えを曲解して、学会の攻撃材料にしたり、
学会の活動方針や運営について、批判をしているのです。
従って、それぞれの教団では、信者の勧誘をするのも、
学会員の改宗をねらっているのです。
外部の人を入信させるほどの力は全くありません。
学会員が、いたおかげで成り立っていたのです。

学会から反撃を受けたとしても、失うものはないのです。
だから、無責任に批判を繰り返しているのです。
信者数にしても、これらの批判勢力を全部合わせたとしても、
学会の会員数の500分の1以下でしょう。
もちろん、何時ものごとく、それぞれの教団では、誇大広告で、
驚くほど多くの信者がいると公に発表していますが、実態は貧弱なものです。
もし、信者数が、日蓮正宗とその一派の反学会勢力を合わして、
公表しているだけの信者が、いると言うのであれば、
参議院選挙の比例区に立候補させるべきでしょう。
公表している信者数からすれば、
数人の参議院議員が誕生しても不思議ではない数です。
創価学会をはじめ公明党に対しても、徹底した批判をしているのだから、
立候補させるのが当たり前です。
しかし、それをしないのはどうしてか。
言うまでもなく、1人も当選させるだけの票数が出ないからです。
それによって、実態がバレるからです。
そして、自分たちの言動は、世の中に通用しないことが、
世間に知れ渡るのが怖いのです。
実際は、その程度の弱小集団になっているのです。
結論して言えば、これらの批判勢力は、
批判のための批判をなしているということです。
従って、学会の正しさを物的証拠や論理的証明で明確に分るように、
いくら説明にしても、全く批判を止めません。
自らの方が明らかに間違っていたとしても、批判するのが目的なのですから、
止めないのは当たり前ともいえます。

学会からの見方のみではなく、警察からも目をつけられている教団です。
1974年(昭和49年)に、顕正会(当時は妙信講)の青年部70名が、
創価学会本部に押しかけました。
そして、街宣車を本部の正門にぶつけて破壊し、
本部に乱入しようとしてきたのです。
これに対して、機動隊員約100名が出動してきて、大騒動となりました。
12名が、暴力行為、不法侵入、器物損壊の罪で現行犯逮捕されました。
この事件は、翌日の新聞でも大きく報道されました。
これ以外にも、顕正会の勧誘に関する事件は、全国的に多数、起きています。
いずれも、暴力や脅迫によって入信を強要するものです。
何人も警察に逮捕されています。
逆に言えば、警察ざたになるような違法なことをしなければ、
誰も入会などしない教団だと言うことです。
布教活動は、特に、顕正会の拠点である《会館》が建っている地域では激しく、
高校生を無理やり入会させた、などというようなトラブルも多発しています。

公明党のポスターが貼ってある家などに、勧誘に訪問しています。
顕正会の勧誘に対する対応は、何を言っても、通じないところから、
「『帰れッ!』コール3回。それでも帰らない場合は、110番」
としています。
地元警察も、通報があれば、すぐに対応できるようになっています。
ただ、勧誘のために訪問してくる婦人の中には、
幼い子供を連れている信者もいます。
時には、小雨の降る中、玄関先に立って、
長々と顕正会の教えを説くこともあります。
その間、幼い子供は、前髪を濡らして、つらそうな顔をして、
話が終わるのをじっと待っています。
こういう姿に接すると、哀れとしか言いようがありません。
それと同時に、宗教の怖さというものを、しみじみと感じます。
「やがて日本は必ず滅ぶ」
などという、バカバカしいことを、本当に信じているのです。
信者以外の人から見れば、明確な妄想を信じ込まされているのです。
「鰯(いわし)の頭も信心から」
という諺(ことわざ)のようなものがあります。
「貴方の信じているのは、鰯の頭です。
全く価値のないものです。だまされているのです」
とどれほど強く、客観的な事実を教えたとしても、
「いや、全知全能の絶対者です」
と心から信じて疑わないのです。

精神作用は、他の動物にはない、優れたものには違いありません。
人間と他の動物と分ける確実な条件でもあります。
しかし半面、それは人間の宿命的な弱さにもなってしまうのです。
顕正会の信者の人も、人生が辛くなり、生きることが苦しくなって、
溺れた人が藁をもすがるような思いで、信仰に入ったのでしょう。
そして、普通の人では考えられないような、異様なことを、
信じ込まされることによって、救いを感じているのでしょう。
人間の心理として、科学的、常識的に有り得ない反社会的な事柄を、
真実であると信じることによって、心が慰められ、
平安を感じるということがあるものです。
この心理作用の根底には、現実の自己の人生が、
本来の自分の幸福な人生ではなく、
何とかしなければ、人生が無意味になるという強迫観念があります。
また、自分の存在に対する不安感や焦燥感から逃れたいという気持ちもあります。
裏を返せば、自分で自らを救済することに自信を失い、
非合理なものに身をゆだねて、責任を放棄するという考え方です。
自己の責任を放棄することほど、安堵なことはありません。
オウム真理教などはその典型でした。

人間の心の弱さに付け込んで、詐欺的に信者を獲得して、
教団の都合のよいように利用することは、
宗教者として許される事ではありません。
日蓮正宗とその一派の根本的な誤りは、簡単に分ります。
日蓮大聖人は、この世に仏として生まれてきた使命を、
「世界中の、できるだけ多くの人々に、日蓮仏教を教え、
苦悩から救い、幸せに導くため」
と明確におしゃっています。
日蓮正宗とその一派は、いずれも、
「我が教団こそ、日蓮大聖人の教えを完璧に実践している唯一の集団である」
と公言しています。
そうであれば当然ながら、毎月毎年、日本国内に限らず世界の各地で、
自宗の信者を増加させていかなければならないのは当たり前です。

会員でない一般の人に必死になって布教活動をするべきでしょう。
そして、信者を大きく増やしていくべきです。
ところが、誇大宣伝とは違って実数は、全く増えていません。
自分たちにしか通じないようなことを、日蓮大聖人の真髄の教えだ、
などと言って、他人に入信を勧めても、相手が納得も共感もする訳がないのです。
それなのに、学会を批判して、会員を救うなどと言っているのは、
「世の中をナメています」
「人間をナメています」
「日蓮仏教をナメています」
そんな、誇大妄想や寝言などで、信者が増やせるなどと思っていること自体が、
すでに、日蓮仏教とは全く関係のない、
否、日蓮仏教に根本的に反した教団になっているのです。
これらの教団は、世間から見れば、
「何か、訳の分からないことをブツクサと言っている、気味の悪い宗教だ」
というくらいにしか見られていないことに、早く気づくべきでしょう。
創価学会は、それとは反対に、
世界192ヶ国地域で会員が、現実に増加しています。
多くの国々で、宗教法人として認められてもいます。
特に台湾SGI(創価学会インターナショナル)は17年間も連続して、
社会の優良団体として行政院内政部から、表彰されています。
台湾SGIは、創価学会の組織ができてから57年目に入っています。
第三者になって、冷静な目で見れば、創価学会と日蓮正宗とその一派とは、
次元の違う教団であることは、誰が見ても明らかなのです。

勘違いをしている人がいます。
それは、「創価学会に日本が乗っ取られる」と考えている人たちです。
その人たちによると、
「創価学会は、日本の社会のあらゆるところに、
国全体を支配するための人間をひそかに送り込んでいる。
教職員、弁護士、裁判官、警察官、自衛隊など、いざと言う時にはいつでも、
社会の要所要所を抑(おさ)えられるように配置されている。
さらには、芸能界やスポーツ界などにも多くの学会員を送り込んで、
乗っ取りの陰謀を隠そうとしている。
間もなく、その乗っ取りの時期が近づいている。乗っ取られる前に、
陰謀をつぶさなければ大変なことになる」
ということのようです。
確かに、学会は以前に《総体革命》と銘打って、社会のあらゆるところで、
仏教の慈悲の精神を基盤にした、
人間性豊かな世の中にしようとして活動してきました。
その中で、様々な分野に学会員が増えてゆき、活躍の分野が広がっていきました。
しかしこれは、国を乗っ取るというのとは全く違います。
乗っ取るというのは、国民の意思に反して、
別の考え方を持った一部の人によって支配されるということでしょう。
よく勘違いされるところですが、創価学会の目指す世の中というものは、
実は、現在の大多数の人々が望んでいる社会と同じなのです。

と同時に社会全体が、平和で人々が幸福に暮らせる国を目指しているのです。
これが日蓮大聖人の『立正安国論』に書かれている、目指すべきものなのです。
この事が、なかなか理解してもらえないところです。
学会員というのは、特別な世界の人でもなければ、
異様な世界を目指している人でもありません。
まさに、一般民衆そのものなのです。
誰よりも、大衆の生活感覚を理解しています。
実際のことを言えば、
「どこからどこまでが学会員で、どこからどこまでは学会員ではないのか」
などというような線引はできないのです。
学会員といっても千差万別です。
例えば、朝晩のお勤めである勤行をしている人もいれば、していない人もいます。
学会の信仰活動をする人もいれば、しない人もいます。
祖父母より学会員だったので、そのまま会員にはなっているが、
ほとんど会員の意識のない孫の世代の人もいます。
こういう人たちが、座談会という場には、皆、一緒に参加するのです。
そして、その場には、学会員ではない友人の人も、しばしば、参加します。
そうすると、学会員とか、学会員ではない人といって、分ける意味がありません。
学会員と非学会員と、特別な線引きなどすることはできず、
混然期一体となっているのが実情です。
学会はすなわち世間一般であり、世間一般はすなわち学会なのです。
これは、日蓮仏教の教えの根本でもあるのです。
したがって、学会が、国を乗っ取る、などということはあり得ないのです。

誤解から様々な非難中傷や迫害があったのも事実です。
表ざたになったものの一つとして、北海道の夕張炭鉱での抗争が挙げられます。
1957年(昭和32年)のことです。
当時、非常に強い権勢を持っていた炭鉱労働組合と学会との争いです。
その力の強さは、
「泣く子も黙る炭労」と言われたほどでした。
夕張の地でも学会員が、増加していました。特に、炭鉱労働者の間では、
密集した宿舎に多くの労働者が生活をしていた事もあって、
学会の熱心な活動家が誕生して、次々と入会者を増やしていました。
そして、選挙になった時、
それまでの労働組合は社会党の候補を推薦支持していたのですが、
学会員は、学会推薦の候補を支援することになりました。
結果は、炭労の予想を越えて、学会推薦候補の獲得票が伸びたのです。
それに危機感を持ち、会員への攻撃が始まったのです。
炭労は活動方針として、「新興宗教団体への対策」として決定し、
学会員を組合から排除しようとしたのです。
もちろんこれは、信教の自由に反した違法行為です。

今までの秩序が、壊されて権威が無くなることを恐れました。
そこで、組合は徹底して学会員への嫌がらせと攻撃を始めたのでした。
会社では、仕事ができなくされ、近所つき合いでは村八分にされました。
さらに学校に行った子供たちは、学会員の子だということで、
周囲からいじめを受けました。
こういう状況の会員を守るために、当時、青年部の池田会長が乗り込みました。
そして、組合側の理不尽な仕打ちを、法的な根拠も含めて、
徹底して追求することを目的に、
労組と学会の公開討論会の開催を申し込みました。
ところが、労組側は逃げました。この時点で、勝敗は決しました。
その後、労組の会員に対する態度は大きく変わりました。

その中で学会員は、人権と法的正当性を主張して、粘り強く闘ったのです。
その結果、学会に対する偏見を打ち破ると同時に、
学会の底力の大きさも相手に感じさせることができたのです。
利害型の学会批判というのは、
法律的、人道的に学会側に正当性があったとしても、
利害の方が優先されて、理不尽に批判、攻撃をしてくるものです。
この種の批判は、裁判や第三者の裁定にゆだねると、
学会側の正当性が明確になるものです。
しかし、実際には、学会員の粘り強い対話によって、誤解が解かれ、
逆に、学会に対して理解と共感を得ることができています。
このような事例は、全国的には、数限りなくあります。
実はこの活動が、学会の大きな発展の原動力となったのです。

学会と労働組合との関係も課題となってきました。
当然ながら、学会員の多くが会社員として働いています。
その会社には多くの場合、労働組合があります。組合員比率の多い時代には、
学会員もほとんどが組合に加入していました。
ほぼ、全ての労働組合は、どこかの政党の支援組織となっています。
選挙になった時、公明党が組合の政党と対立するようになった場合には、
会員の立場が微妙になることは避けられません。
また、公明党の候補者がいない場合でも、組合活動が、
他党の応援になるという、会員にとってはしっくり来ない気持ちになりました。
こういう状況の中で、学会の立場を明確にするという意味で、
学会主導の労働組合の設立を望む声が出てきました。
しかし、様々な観点から、様々な考え方を集約した結果、設立はしませんでした。
以上が利害型です。

感情型の批判が出てくる原因は、極めて、単純です。
創価学会の、理念や活動の善悪、評価などとは関係なく、
学会の存在そのものを容認することができないのです。
批判団体は、偏狭な思想を持った、規模の小さい集団です。
例えば、1968年(昭和43年)、池田会長が、学会の学生部総会において、
「日中国交正常化提言」を行なったのですが、これに反発して、翌日から、
会長の自宅や学会本部周辺に、街宣車を繰り出して、騒いだ団体などです。
当時はまだ、「拡声器による暴騒音の規制」が無かったころで、
大音量は周辺の住民にも、ずいぶん迷惑なことでした。
他人への迷惑など、まったく考慮できない集団です。
現在でも、ネットへの中傷批判のデマの書き込みや、
時によると、街宣車で学会批判をしたりしています。
知性的な要素の欠落した、感情的批判ですので、
自らの愚かさに気づくのを待つのが最善の策です。

「宗教はアヘンである」
と完全に宗教自体を否定しています。
当然ながら創価学会も否定されるべき宗教団体です。
両者が論争したとしても、決着はつきません。
どちらかが負けるということは、
どちらかが存在しなくなるということですから、あり得ないことです。
所詮、この論争は噛み合いません。不毛の論争となります。
1974年(昭和49年)、不毛の論争を避けようということで、
推理作家の故松本清張の仲介で、日本共産党と創価学会が話し合いを持ちました。
最終的に、池田会長と宮本委員長が対談を行いました。
その結果、お互いに無意味な批判合戦はやめようということで、
《創共協定》が結ばれました。
これは、一時期、一定の効果はありましたが、
地方選挙などの現場では、ほとんど意味を持ちませんでした。

公明党と非難合戦をするのは、政党間同士ですから、当然のことですが、
攻撃の矛先を、その政党の支援母体にまで及ぼすというのは、筋違いのことです。
例えば、野党の不甲斐無(ふがいな)さを追及するのに、
その支援母体である労働組合の責任を追及するでしょうか。
政党間の論争の矛先を、支援団体である創価学会にすり替えてゆくのは、
政道に反した悪意があるからにほかなりません。
感情的な批判は、共産主義以外にも、
国教を定めているような国においても同じことです。
現在、学会員は、192ヶ国地域にいますが、その中には、
個人の信仰としてだけ認められているような国もあるのです。
池田会長は、日蓮大聖人の教えの通り、
全世界に日蓮仏教の真実の姿を理解してもらうため、
エジプトなど国教を定めている中東や、中国、
ソ連などの共産圏までも訪問しました。
そして当時の、周恩来総理、コスイギン首相、ゴルバチョフ大統領などと、
対談をしているのです。本来、宗教否定であったり、
国教以外は認めない国へ、どうして行くのか、と尋ねられた時、会長は、
「そこに人間がいるから行く」
と答えています。まさにこれが、日蓮仏教の真髄なのです。
宗教、思想の相違を乗り越えて、人間としての根源的な立脚点から、
一人の人の幸福と世界の平和を目指すのが、創価学会の目的であり、
日蓮大聖人の教えなのです。
以上が、利害感情型です。