第二章【批判の根拠】(7)不可解

実に不可解なことがあります。
これまで非常に多くの、創価学会や池田会長に対する非難中傷がありました。それらの内容をみると、ほとんどが低俗か虚偽なもので、一顧(いっこ)に値すべきものもありません。

それなのに、マスコミ、特に週刊誌などは仰々(ぎょうぎょう)しく取り上げました。
書かれている文章表現や内容は、商業雑誌の一般の読者に提供できるレベルにも達していません。
それなのに掲載されたのはどうしてかと言えば、当然ながら学会批判が書かれていたからです。
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とすると、本来、客観的な評価からすれば、紙くずになるような文章が、学会批判であるというだけで小銭が稼げるということです。
であるならば、これらの人たちは、創価学会のおかげで小銭を手にしたわけだから、本来であれば学会に対してお礼と感謝の言葉を言うべきでしょう。

ところがまったく、そうしたしおらしい姿が見られません。寄生虫でさえ寄生している本体に対しては恩を感じているでしょうに、全く不可解なことです。実際に、こういう類いの売文家が結構います。

創価学会や池田会長に対する批判は、山ほどあります。それらに共通していることは、事実や真実を装ったごまかしが、ほとんどだということです。無関係な人が見れば、何が本当で何が嘘なのか分からなくなります。
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「事実かどうかは分からないが、創価学会には、何か後ろめたいところがあることは間違いないのだろう」
このように思わせるのが目的で、垂れ流されるガセネタは無数にあります。
第三者的な立場から事実を見れば、それがガセネタだとすぐに分かります。

例えば、これまで創価学会批判を掲載した週刊誌の記事の中で、裁判や警察沙汰になったものがたくさんあります。それらのすべての判決や結論を一覧表にすれば一目瞭然です。

週刊誌は、創価学会の被害者になりそうな人物を探してきて、訴訟を起こさせたり、告発をさせます。そしてそのことを大々的に誌面で報じます。
電車のつり広告や新聞の広告でも、目立つようにその記事の見出しをつけます。
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これを見た人は、客観的に物事を判断する裁判所や警察に対して、学会や会長から被害を受けたと訴えているのだから、事実に違いないと思いかねません。
これが目的です。

その後の裁判や警察の捜査の結論については全く触れません。それも当然で、敗訴したり、起訴するに該当しないものが多くあったからです。出版社は都合の悪いことについては一切、黙殺するのが常なのです。

特にひどかったのは、池田会長に強姦されたという手記を週刊誌に発表して大騒ぎをした後、会長に対して損害賠償請求の訴えを起こした者がいました。
判決は、「訴権の濫用による却下」で敗訴となりました。
訴権の濫用というのはこの場合、狂言訴訟によって世間を騒がせることを目的に訴訟を起こすことです。
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まさに週刊誌の目的と一致しています。当然ながら週刊誌は、敗訴したことなど一言も報道しませんでした。

さらに異常なことには、衆議院予算委員会で、判決が出る前に、この週刊誌の記事を取り上げて、池田会長の証人喚問を求めた国会議員がいたということです。
ここには、創価学会の批判勢力が、どのような構図で成り立っているのかを知るための一端が示されています。

学会批判は週刊誌に限らず、月刊誌にもしばしば掲載されました。そのなかでも特異だったのは、文芸誌にも登場したことでした。その内の一つは、小説専門の雑誌で、新人賞などは作家への登竜門として高く評価されているものでした。いわば、一流の月刊小説誌です。
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文芸春秋社の『オール読物』です。
昭和55年(1980年)11月特別号の冒頭に「会長の野望」という小説が掲載されました。表紙には、

「かつて創価学会員だった作者が描くインサイド・ノベル  
『会長の野望』(100枚)志茂田景樹」

と大きく書かれていました。確か、電車の吊り広告や新聞広告でも、この小説が中心的に宣伝されていたように思います。
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この小説の作者の志茂田景樹さんは一時、創価学会に入会し活動していましたが、その後脱会して学会批判をするようになっていました。
文芸春秋社に縁の深い直木賞を受賞しています。

この小説は読んでみれば誰でも分りますが、極めて出来の悪いものです。大衆小説として読んでも全く面白くなかったし、文学性という観点からみても評価できるレベルに達していませんでした。

題名の『会長の野望』も誇大宣伝のようなもので、そこから想像されるスケールの大きさのようなものとは全く別の狭小な低俗小説です。
文章もダラダラとして、取り留めもないものです。
ちょうど、中学生が書く「遠足の思い出」のようなものです。
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こんな素人が書いたような小説をどうして一流の文芸誌が冒頭作品として掲載したのか、おそらく事情を知らない読者は、不審に思ったことでしょう。

理由は簡単なことで、この文芸誌を発刊している文芸春秋社は、『週刊文春』など他の出版物も含めて、創価学会批判の中心的な役割を果たしていた会社でした。そこで、寄生虫的作家の作品を載せたというわけです。

寄生虫というのは、志茂田景樹さんは、創価学会批判の小説を他にも何編か書いていますから、まさに創価学会のおかげで小銭を稼いだ作家なのです。
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文芸春秋社は、文芸誌という文化的性質を優先させるべき出版物でさえも、学会批判に利用したのです。

学会批判は、常識では考えられないような形で行われることも多かったのです。だからこそ読者は、批判の内容には一理あるのではないかと思いかねなかったのです。

志茂田景樹さんは時々、テレビに出演していました。気持ちの悪い化粧をして、気持ちの悪い服装をして、気持ちの悪い言動をしていました。
今でも印象に残っているのは、番組の中でアナウンサーが、この作者の同窓生の家に行って、インタビューをした時の場面です。
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「あんな人とは、街中を一緒に、よう歩きません」
これが同窓生の彼に対する正直な気持ちであることは、テレビを見ていた人は皆、納得できたでしょう。

学会批判を効果的にするためには、媒体するメディアの信用が高ければ高いほど、よいことは言うまでもありません。
そういう意味では、いわゆる五大紙の日刊新聞は、最も影響力が大きいメディアの一つになるでしょう。

五大紙のうちの一つがある時、学会の批判的記事を掲載したことがありました。もちろん、学会員も多くが一般紙を購読しています。
これを読んで気分を悪くした多くの会員が、翌月からの購読契約の解約を通知しました。
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どの程度の部数かは明確ではありませんが、おそらく数十万部単位ではないかと思えます。
異常な減部の通知に驚いた新聞社は、しばらくしてまた学会関係の記事を載せました。
その記事は、学会員に対するゴマスリの思惑が、あからさまに出ているものでした。本来、それは記事に取り上げるような内容ではないうえに、一流紙としての品格などどこにもありませんでした。

良識ある読者は、この新聞社の豹変ぶりに唖然(あぜん)として、あきれ返ったに違いありません。
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マスコミとして世の中に真実を報道するという信念があるのであれば、記事の反響によって収益減になったとしても、そんなことで報道の自由という旗を下ろすことなく、信念を貫くのは当たり前です。

この新聞社は、初めの学会批判の記事が正しかったというのであれば、さらに正しさを証明する批判記事を掲載すべきでした。
それが、損得勘定によって後先も顧みず、ゴマスリ記事を載せるというのは、日本のマスコミのレベルの低さを証明しています。

一般的に日本のマスコミのレベルは、西洋諸国より五十年も遅れている、と言われている理由が分かるような気がします。
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これに似たようなできごとは何度かありました。それをテレビ局が報道するときの口調はたいてい決まっています。
「創価学会はまた、言論弾圧のようなことをしようとしている」
あたかも、学会本部が当該新聞や出版物の不買運動を指示しているかのように報道します。

真実をすり替えて学会批判の方向に持っていこうとします。学会員も黙ってはいず、テレビ局に抗議の電話をする人も多くいました。
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これらの結果として、
「菊の御紋と鶴マークには気をつけろ」
ということがマスコミ関係者にささやかれるようになったのです。
鶴マークというのは当時の創価学会を指していました。
真実を報道しないがゆえに、厳しい抗議におびえていたといえます。

最近は、週刊誌が学会の批判記事を特集することが少なくなりました。理由は簡単です。それによって部数が伸びなくなったからです。
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かなりの期間、批判記事さえ載せれば、通常よりも販売部数が大きく伸びる時期がありました。その利益からすれば、たとえ裁判沙汰になって賠償金を払ったとしても、十分に増益になったので、批判中傷のたぐいの記事が多く出てきたのです。

また、学会員も一般の人も「隠された学会の闇」があるのではないかと疑心暗鬼になり、多くの人が購入したものでした。

ところがこのごろは、学会批判の記事が出ても、
「いつものパターンで、どうでもよいことを大げさに報道している」
と相手にされなくなりました。出版社からすれば、学会批判はすでに利益をもたらす材料ではなくなってきています。
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ここに、学会批判の特質の一つが明瞭に表れています。創価学会や池田会長に対する批判の大部分は、正しいとか正しくないとかという真偽に基づいたものではなく、儲けるかもうけないかという利益追求の基準によって出てきたものだといえます。
それをあたかも、社会的正義感からのように偽装して垂れ流しているに過ぎなかったのです。

「一流の週刊誌が嘘を書くわけがない。創価学会というところは、胡散(うさん)臭い団体であり、胡散臭い会長であるに違いない」

実態を知らずに、週刊誌の記事を読んだ人が、創価学会に対してこんなイメージを作り上げたことは想像に難くありません。その人数は膨大な数に及んでおり、その影響力は大きく、創価学会や会長に対してマイナーな世論を定着させるまでになったことは歴史的事実です。