第二章【批判の根拠】(1)インターネット上の批判

具体的なものは、種々雑多で、取り上げると切りがありません。
その中でも、特に多いのは、
(A)元学会員の批判
(B)公明党にからめた学会批判
(C)差別主義者の学会批判
などが挙げられるでしょう。

この三点について見ていきたい。
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(A)元学会員の批判

最近、こういう類いのものが多くなりました。元学会員というのは、一度は学会に入っていたが、様々な理由で退会をした人です。
中には、父母あるいは祖父母が熱心な学会員で、本人も意味も分からず、活動に参加したこともあったが、独立して生活するようになって学会から離れた、という人も多くいます。

学会も歴史が長くなり、会員が多くなったこともあり、元学会員も増えてきました。こういう人達のほとんどは、学会批判をネット上に掲載するようなことはしません。
ほんの一部の人が、ウサバラシに書いているというのが現状です。
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学会外の人からの批判とは違って、学会の活動をした経験がある人なので、一味違った学会批判になっています。反学会の勢力からすれば、利用価値の高いものとして喜ばれています。
しかし、書かれていることは取るに足りないことばかりです。

退会した理由に共通していることは、日蓮仏教がよく理解できなかったということです。よくあるものには、
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「信心をしたら全てがうまくいく、と言われたが、やってみても一向によくならない。
不満を幹部に言ったら、信心の頑張り方が足りないからだ、と逆に怒られた。それだったら、どのような状況になろうが、悪いのは自分ということになる。
学会側の都合のよい話だ。結局、信心しても何の役にも立たないということだ」

というものです。もし、これが日蓮仏教と創価学会の現実であったとしたら、誰も学会の信仰を続ける人はいなくなるでしょう。

物事には順序というものがあります。
「百万円が欲しいから神様にお願いしたら、札束が空から降ってきた」
などということがあるわけがありません。同じように、例えば営業マンが学会に入会して、
「入会する前までは一日五万円の成績しか上げられなかったのに、入会すると急に百万円の営業成績を上げられるようになった」
というようなこともあるわけがありません。
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もしこんな宗教があったとしたら、それは人間を堕落させるものであり、人間を幸せに導くという、本来の宗教の目的とは全く違ったものになります。

日蓮仏教の神髄は、信仰者自身が自己変革して、それにふさわしい社会的な力や家庭的な人間愛などを身につけられることです。
他力本願で奇跡を起こすのではなく、自分自身の実力や人間性を向上させていく訳ですから、一朝一夕にできるものではないことは、世の中の道理でしょう。
入信した途端(とたん)に人間が変わったとしたら、異様な宗教で、麻薬のような危険性があります。

学会の退会者の多くの人は、例えば野球選手になろうとしている人が、まず基礎体力をつけるためにランニングをしている時、
「こんなことをしても何の役もたたない。時間の無駄だ」
と言ってやめてしまうようなものです。どのような道であったとしても、その道を少しでも理解しようと思えば、辛抱と努力が必要です。
ましてや極めようとすれば、性根を据えて取り組まなければならないのは、どの世界でも同じでしょう。
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次に、退会者に共通していることは、身近な会員との人間関係に嫌気を感じていることが多いことです。
それは、地元の学会の組織の人であったり、職場にいる学会員であったりします。確かに、新入会の人や、あまり信心の理解がない人が、創価学会や日蓮仏教を知る第一歩としては、学会員の姿を通して理解することが多いでしょう。

「町会では、他人の悪口を言うので周囲から嫌われている」
「職場では、協調性がなく、仕事でもよく失敗をするので、邪魔者扱いされている」
「地域の学会員同士の仲が悪く、よくけんかをしている」
周辺にこんな、性格の悪い学会員がいたとしたら、批判的になっても仕方がないかもしれません。
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一昔前、ヨーロッパを旅行する日本人は、インテリで経済的にも余裕ある人が多かったものです。
そういう人は大抵、勉強のため近眼になって眼鏡をかけ、高価な日本製のカメラを持って行くことが多かったのです。

だから一時期、
「ヨーロッパを眼鏡をかけて、首から高級カメラをぶら下げて旅行している人は皆、日本人だ」
という見方をされたことがありました。これでは、日本人は全員、眼鏡をかけてカメラをぶら下げていることになります。こんな誤った認識をされては、ずいぶん迷惑なことです。
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学会も同じです。これだけ学会員が多くなると、周囲のひんしゅくを買うような人も居ることは確かです。
しかし、そんな人は学会全体からすればほんの一部であり、その人が学会の真実の姿を表しているものではありません。

別の面から見れば、学会の中にも様々な人がいるにもかかわらず、その集団が団結をして活動していくということは、一人々々の人間的な成長が求められるということです。
だから、学会という組織のなかで活動していると、自然のうちに人間が磨かれるのです。
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最近ではまた、学会に再度、入会するという人も多くなっています。さまざまな理由で退会したけれど、再び身近な人から勧められて入会をするのです。
再入会の人は、退会していた間も学会について関心を持ち続けていた人が多く、学会の理解が深まっています。
それで、再入会者の人は、その後は安定した信仰活動を続けています。

一方、「創価学会被害者の会」などというような団体を立ち上げて、学会攻撃を続けているところもあります。
こういう類いの団体はネット上では、正義の味方のようなことを並べて誘導していますが、実態は悪意に満ちたものです。
実際にその会に入って、責任者と膝詰めで話をすれば、腹黒さがすぐに分かります。

反学会の権力に都合よく利用されるのがオチで、少しの文句でも言おうものなら、逆に敵視されるというのが実態です。創価学会の組織と比較するなら、天地雲泥の差です。
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元学会員で、活動にある程度参加していた人が退会した時に、よく言うことは、
「学会の半強制的な、嫌な活動に参加しなくてよくなり、気持ちが清々とした。学会のシガラミから抜け出せて楽しい人生になった」
というものです。

その時点では退会してよかったと思うかもしれませんが、例えてみれば、受験生が目標の進学先を目指して、苦労しながらも一生懸命に努力していたのに、ある時点で進学をあきらめて、勉強しなくてもよくなった時の精神の状態に似ています。
労苦を伴う、幸福への人生の目標をふり捨ててしまって、無責任で気楽な、迷いの人生に入っただけの話です。
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同じ時期に入会した人たちで、途中で学会をやめた人と、その後も真剣に学会の活動に取り組んだ人と、十年たったのちに再会すると、学会の信仰の素晴らしさが一目瞭然になります。
その後の十年間、どちらが幸せな人生だったかを、第三者から客観的に判断してもらえれば、だれでも納得できるでしょう。

実際に、こういう出会いはよくあることなのです。何十年ぶりかに二人が出会って、退会した人が、痛恨の念に駆られることがしばしばあります。
確かにその人が退会した時は、さまざまな正当と思える理由で信仰をやめたのでしょうが、結果的に信仰を持続した人とは、人生の幸福に大きな相違が出てきたことを実感するものなのです。

これこそが学会の信仰の正しさを証明するものです。もし、信仰を止めた人と続けた人との間に差がなかったとすれば、世界の一千万人の学会員は皆、信仰を止めるでしょう。
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 (B)公明党にからめた学会批判

政治の世界は当然ながら相対的な世界で、その中で公明党も活動しています。それに対して宗教の世界は絶対的な世界で、創価学会はその中で活動をしています。
ネット上の批判を見るとほとんどが、創価学会と公明党を区別できずに非難をしています。

公明党と創価学会に関する批判の関連性を見ると、実に不思議な状況にあることが分かります。
政治団体である公明党と宗教団体である創価学会との関係がまったく理解できていないのです。政党とそれを支援する団体との関係です。
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公明党は政策を策定して実現のために活動します。それに対して批判するのは大いに結構なことです。政党同士、政治家同士で激しい論戦の攻防をすることは、お互いの甘さを払しょくする上でも重要なことです。

ところが、現状は公明党への批判がそのまま創価学会批判となっているのです。
例えば、国会で自公が提案した「安全保障関連法案」の論議が激しく行われていた時、公明党への批判は創価学会への批判に関連付けられていました。

「創価学会の初代会長は、戦争遂行する国家権力に反対して獄死したのに、公明党や創価学会が『戦争法』である『安全保障関連法案』に賛成するのは初代会長に対する反逆行為だ」

この様な非難が多く出ていました。さらには、
「池田会長や創価学会は絶対平和主義者だから当然、『安全保障関連法案』には反対だ。それなのに、公明党は支持団体に反逆して暴走している」
というものまで出てきました。
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これは、創価学会に敬意を表しているようですが実際は、公明党と学会を分断して両者の、社会への影響力をつぶそうとするものです。

同じような法案として、「テロ等準備罪」が挙げられます。その対応に対して、

「宗教的理念に基づいて、最も人権を大切にする創価学会が、人権蹂躙(じゅうりん)の可能性のある『テロ等準備罪』に賛成するはずがない。それなのに、公明党が賛成するのを看過しているのは、学会も公明党も与党の座にしがみつくために、なりふり構わず、社会的良心をふり捨てている」

などと批判しています。
国会での法案成立が近づくにつれて、こういう類いの批判がいたるところで出てきます。特にインターネットの書き込みなどでは、

「創価学会初代牧口会長は戦時中、治安維持法違反によって投獄されたにもかかわらず、今、『現代の治安維持法』といわれる『テロ等準備罪』に公明党が賛成するのは、師匠に対する反逆行為だ。それに対して、何も口出しできない創価学会も同罪だ」
というようなものが多く出ていました。
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最近の公明党と創価学会に対する批判の傾向性として、高齢化した池田会長や創価学会と公明党との間で意思疎通ができなくなり、亀裂が生じているかのようなものが多くなってきています。
こういう話は、マスコミ受けのよい観点だから、テレビなどでももっともらしく報道されたりします。

「学会と公明党とは政教分離を標ぼうしており、緊密に連絡を取り合っているとは公表できない」
ということを盾に悪い憶測を拡大させる報道です。
実際の学会と公明党との関係がどのようなものなのか、全く理解していない興味本位な見方です。
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公明党と学会に対する政治がらみの批判は、一般論からして実に異常な現象だといえます。
もちろん、公明党に対して、「安全保障関連法案」や「テロ等準備罪」を与党として提案することを激しく批判し論争するのは、大いに結構なことです。
しかし、その批判の矛先を支援団体である創価学会や池田会長に向けるというのは、世の中の道理に対して無知としか言いようがありません。

さすがに一般的なマスコミでは、限度をわきまえていますが、無責任なネット上の批判では駄弁を繰り広げています。

これまでの政治状況において、さまざまな政党がさまざまな批判を受けているのは、政争の場として当たり前でしょう。しかし、政党に対する批判をその支援団体に向けるということはありえないことです。
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例えば、二千九年、民主党が政権を取ってからの三年間、それまでの自公政権では考えられないような失策を連発しました。
「失われた三年」とさえいわれるほどの愚策政治を行いました。

その間、民主党に対しては冷笑にも似たが批判が殺到しました。批判の矛先は当然ながら民主党から離れることはありませんでした。当然、民主党を支援した官民の労働組合に対する批判などありませんでした。

また共産党は、非常に多くの種類の支援組織を持っていますが、同党が批判される時、その批判が、支援している教職員や医師や弁護士などの組織への批判に向けられることは全くありません。

ましてや、党の失策の責任と支援組織の長の責任を一体にして、責任を追及したり、批判するようなことはあり得ないことです。
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自民党批判にしても同じです。自民党は多くの新興宗教や既成仏教団体から支援を受けています。
未だかつて、自民党に対する批判がそのまま、支援している宗教団体やその責任者に対して向けられたことはありませんでした。

「自民党の政策は間違っている。それは、支援している某宗の住職が頼りないからだ」などということはあり得ないことです。

政党の責任と支援組織の責任とは全く別物であることくらい、誰でも分かることなのです。ところが、公明党と創価学会に関してだけは、一体化して責任を追及したり、批判するのだから異常です。
ここに、創価学会と公明党に対する批判の特殊性が存在しています。
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明らかに底流には、学会に対する偏見と嫌悪感が流れています。それが出てくる原因のほとんどは、学会批判者のガセネタやデマ報道によって作られた学会に対する固定観念です。
公明党と学会の関係に対して、偏狭な捉え方をして、批判することは道理に反していることを知るべきでしょう。
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 (C)差別主義者の学会批判

インターネットに出てくる学会批判の中で、読むに堪えないような批判を書いている人は、たいてい差別主義者です。
書いている本人は、無意識に書いていて、気がつかないのでしょうが、内容を少し見ただけでもそれは分かります。

自分が差別主義者であるということを気にしている様子は全くありません。それは、差別に対して無知と鈍感、さらに差別的なことを書いたとしても、問題になるような社会的な立場を持っていないということに由来しています。
だから、一般社会の中で、書いたり言ったりすれば、問題になるようなことでも、平気で書くのです。
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例えば、「創価学会員は皆、貧乏人と病人だ。社会的地位がない。犯罪者が多い。世の中の嫌われ者だ」
等々、書き出せば切りがありません。ネット上に載せるということは、学会員に対する差別意識を増幅し、拡大することに快感を感じているからにほかなりません。

さらには、
「創価学会員は一般人よりも生活保護受給者が多い。池田会長は朝鮮人である」
などというものまであります。学会員のみならず、生活保護受給者や朝鮮半島の人々に対するいびつな差別意識が強く出ています。

もし公の場で、こんなことを言ったとしたら、マスコミも取り上げるような問題となり、関係部署の人がテレビカメラの前で頭を下げなければならない内容です。
さらに、処分を受ける人が出ることも必至です。
ところがネット上で、何の処罰も受けないものだから、調子に乗って多くの人に拡散しているのです。
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これは、ネットなどを通した、いじめによって自殺者まで出しているという深刻な状況と根っこは全く同じです。何を言っても、何を書いてもとがめられない、と幼児的な考えで、内容をだんだんとエスカレートさせてゆくのです。
責任をとらされないと錯覚をしているのです。

一般社会人として、自分の為している事の重大さを理解する能力が著しく欠けているといえます。どれほど関係者や社会に迷惑をかけているかが分かっていません。

人はどうして同じ人を差別したがるのかといえば、その根底は自分の劣等感を隠すためにほかなりません。
あるいは、劣っている自分の自尊心を何とか保つためにするものです。いずれも人間として卑劣な精神の状態ですが、そのことを本人は全く認識できないほど幼児的なのです。
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差別意識は、江戸時代に幕府が、士農工商穢多非人という身分制度を制定して、租税で搾取される農民の怒りの矛先を収める方法に使ったことはよく知られていることです。
その差別意識が現在にまで根強く残っていることを考えれば、どれほど罪深いことか分かります。

非常識で差別的な学会批判の内容を見ると、どれも正当な事実に基づいた根拠などはありません。大抵は、ネット上に流れている無責任なものだったり、反学会の出版社から出された書籍だったり、あるいは知り合いのわずかな学会員の言動などを根拠にしています。
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学会が、どのようなところかを認識するための材料が差別的なものであるから、そこから出てくる評価は当然、差別的なものになってくるわけです。
認識と評価という基本的な判断の過程がまったく検証されていません。憎悪と思い込みによって書かれているに過ぎません。
こういう無認識の評価が、差別的な学会批判者の精神状態と合致しているわけです。

差別的な学会批判者が、どうしてこれほどヒステリックにネット上に批判記事や動画などを載せるのかといえば、歴史上に登場してきた差別者の精神状態と全く同じになっているからです。
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こういう批判者は、現在の自分の外形的な姿や社会での仕事、これまで生きてきた人生とこれからの予想される人生に劣等意識を持っているのです。
ちょうど、江戸時代の農民が、武士に比べてはるかにみすぼらしい姿であることを慰めるために、強制的に最低の姿をさせられた穢多非人を侮辱して、喜んだことと同じです。

また、農民はどのような生き方をしようが結局、農民から逃れられない自らの人生を、人間以下の人生しか歩むことができない穢多非人の人生を見て慰めたのと同じです。
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常識的に考えて、現在の仕事や生活に充実感を持ち、将来に希望を持って、人生を生きいきと歩んでいるような人は、差別的で人権を傷つけるような学会批判をする必要がないことは明らかです。

こう言えば、腹が立つ人も多いと思いますが、これは単なる予断ではありません。もし実際に、差別的な学会批判をしている人を一堂に集め、一人ひとりがどのような生活と人生を送っているのかを知れば、事実だということが明確に分かり、納得をするでしょう。

人権侵害の根底には差別意識があります。差別的な学会批判をする人は、些細なことだと考えているかもしれませんが、些細な意識の広がりが、大きな社会問題になるものです。
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ヒトラーの人種差別を思い出すまでもなく、人間に対する差別意識は、人間社会を破壊させる悪魔のようなものです。それは元をたどれば、一人の人間の小さな差別意識から始まっていることを自覚すべきでしょう。